投稿

7月, 2017の投稿を表示しています

シンギュラリティ

イメージ
子供が読む絵本を借りに図書館へ行くと、意外と新しい本や面白そうな本が入荷していた。図書館で借りると家の本棚がかさばらないし、2週間で返すべく読み切るのも良い。そんな中、キーワードとして気になっていた「シンギュラリティ」を読了。 前半は「最適化」「機械学習」「ディープラーニング」といった話題のトピックについて技術に立ち入らず触れて、いかに人工知能が人間を模すかというアプローチの話が続く。その先に、もし人間に追いつく人工知能が出来れば、単純に並列化するだけでも簡単に人間を超えるよね?と想像を膨らませて、どんどん哲学的な話に向かう。 突拍子もなさそうな話にも、なんとなくついて行けるのは、私にとっては手塚治虫「火の鳥」のおかげだろう。 直前まで「 コンピューターはむずかしすぎて使えない 」を読んでいて、単なる操作デザイン改善ではなく、エンジニアが生み出した技術の主導権をデザインに奪還する主題だと感じた。 そういった意味で、人工知能の技術を推し進めるのはエンジニアだけど、エンジニアに運転席を任せて進んでいいのか?というのは教訓の活かしどころだろう。 IT技術において操作性が悪くて引き起こされる最悪の事態はせいぜい飛行機事故だけど、人工知能の設計がマズくて起こる最悪の事態は映画ターミネーターばりの核戦争であり、誰も無関係ではいられない。 では、正しく人工知能を設計するために、主導権を誰に渡せば良いのか?人工物に触れた人間に良い感情をもたらそうとする既存のデザインでは歯が立たない気がする。人工物そのものが意識を持って人間の英知を超えてしまうのに、それより劣る人間が妄想でプロトタイピングしてつくり込める気がしない。 人工知能を設計する難しさは報酬関数の与え方にあり、「人を笑顔にするお仕事がしたい」をゴールとして定めると、極論、人工知能さんは人間に笑わせるクスリを盛ってでも笑顔を最大化させる。私がそんな事をしないのは、倫理観や美学や自己実現と照らし合わせての判断もある。 人工知能に対して、人間のようなワビサビが効いた倫理観・美学・自己実現などをプログラミングするには、その前に人間を知る必要があり、我々自身に「何のために生きるんですか?」レベルの問いを立てて答えを出さないといけない。ここは哲学者の独壇場ではなく、エスノグラフィーなどの質的調査が貢献できるかも

コンピュータはむずかしすぎて使えない

イメージ
原著のタイトル「The Inmates are Running the Asylum(患者が仕切る精神病棟)」の邦題が「 コンピュータはむずかしすぎて使えない 」になるのは、デスメタル界で「Incarnate Solvent Abuse」の邦題が「硫酸どろどろなんでも溶かす」になるくらい直球。確かに、直訳だとコンピューター関係の本だと気付かないかと思いつつ読了。 筆者が「精神病患者」呼ばわりする批判の対象がプログラマーであり、シンプルで快適であることを求める一般人と比べると、内部構造の理解を重んじて複雑さを受け入れる点でズレている。そのくせプログラマーがものづくりの主導権を握って離さないせいで、一般市民の周囲には使いにくいコンピューター製品で溢れるようになり、バカにされたような気持ちにさせられているとプログラマーを糾弾している。 外野から批判されるとソフトウェア技術者が「ムッ」となりそうなところ、Visual Basicの生みの親であるアランクーパー先生に言われるのでグウの音も出ない。いや、むしろ筆者自身がVisual Basicを生み出した結果として、インタラクションの酷い製品を世に氾濫させたという自戒の念を込めて自分を含めて批判している感じがする。 ユーザビリティ問題は解決済なのか? 本書は初版2000年で既に絶版になっており、私も中古本を買った。IT業界では新技術がすぐ時代遅れになるのは自然だし、筆者が問題提議しているインタラクション問題は解決したのか。 世間の動向で言っても、書籍出版に近い1999年に制定された「ISO 13407」でユーザビリティが定義されたのが、2010年に改訂された「ISO 9241-210」での関心はUXへと向かっている。 でもそれって本当だろうか?机上では「その通り」かもしれないけど、私の周囲では未だにソフトウェアがユーザーをバカにし続けている。 身の周りの仕事がペーパーレスで済むようになったけど、もともと紙の書類が10種類あったとすると、電子化の代償としてアカウントも操作性も違うシステム10種類を使いこなさないと仕事が進められなくなった。個々の書類を電子化する対処療法からは、ユーザーのシナリオに基づいてデザインする視点が抜けている。 モノづくりの中で「ペルソナ」は有名になって誰でも知っているけれ

2017 UX KANSAI #02 オブザベーション

イメージ
被験者の行動を観察して細かく記述する「オブザベーション」のワークショップ参加者を、さらに外側から「オブザベーション」させていただいた。 ゼリーを食べる人を行動観察する際に、題材であるゼリーはUI上の問題が沢山あって良かったんだけど、メーカー側の企業努力によって改善してしまった点もある。望ましい世界に向かっているけれど、セミナーの題材としては問題だ。 私自身も人知れずこっそりゼリーを食した。簡単便利を追及してきたクセが抜けず、ついUI上の問題を探してしまう自分に気付く。そんなこと思いながらゼリーを食べる消費者なんていないのでリアルではない。 撒き餌の如く散在するUI上の問題(モノの世界)に惑わされず、UXの問題(コトの世界)で捉えるのは、外から見ていても難しいワークショップに感じられた。 KJ法は難しいけど役に立つ 講義の中にも「難しいKJ法と比べると上位下位関係分析は敷居が低い」というような話があった。とは言え、UXデザインの基本所作に関しては、KJ法から勉強になることが多い。 私が偉そうに言っても「何様やねんアイツ(怒)」と思われるので、偉大なるKJ(=川喜田二郎)先生の言葉を借りて物申す。 付箋への記載について 発想法(p71)から引用 なるべく柔らかく、もとの発言の肌ざわりができるだけ伝わるようにと表現するのが良いのだ。もとの発言の土の香りをなるべく伝えた一行見出しがよいのである。 難しく書き過ぎるのもいけないけど、「食べにくい」だけでは情景が伝わってこないので良くない。 こちらのチームは大きい付箋を使って、読んだら分かる文章を書いているのがイイネ。 「事象を書きましょう」と言うと、実際の発話や行動しか書いてはいけないように思えてしまうところ、それだけだと情報が足りず情景が伝わる文章にならない。足りない情報を補うチャンスとして、「なぜそんな行動をとったの?」と聞けるエスノグラフィックインタビューがあった。 もし、文章を書こうとして書けないのであれば、直前のインタビューの質が悪かったと反省するポイントになる。このインタビューだけで単体のセミナーのテーマに出来るくらい高度なスキルが要る。そんな難しさを発見するための「ミドルスタート」だったのか。 グルーピングとラダーア

暴走族のエスノグラフィー

イメージ
「 暴走族のエスノグラフィー 」を読了。タイトルにもなっているエスノグラフィーは文化人類学らへんの研究手法で、調査対象の部族・民族に入り込んで文化の特徴や日常の当たり前を詳細記述する。昨今では、ビジネスシーンでもユーザーの価値観レベルの理解や課題発見に活かすべく、ユーザーの生活環境に入り込んで参与観察する取り組みがある。 私が読もうと思った動機はユーザー調査法(後者)への関心によるものだけど、この書籍は暴走族の生態を解明する立場(前者)のようだ。いずれにせよ、そこそこエエ年したインテリ社会学者が暴走族と行動を共に調査している姿を想像すると面白い。 読んでみても、行儀よく真面目とは対極にありそうな暴走族に対して、フロー経験、内発的報酬、「魅力-リスク」モデルの観点からクソ真面目に考察していて、なかなかギャップに富んだ内容だった。 手法より問いの深さがモノを言う 書籍の調査アプローチは、引き出しをフル活用して使える手法は節操なく使うものだった。情報提供者と行動を共にしつつも、本人の手記を参照したり、アンケートを取ったり、インタビューしたりする。 全体を通して目から鱗だったのは「問いの深さ」に尽きる。自分だと情報提供者からの証言を聞き出した時点で、分かったつもりになって調査を打ち切ってしまうかもしれないところ、筆者は情報提供者の証言を「本当に?」「どうして?」と疑い、さらに深掘りして本質を解き明かそうとしている。 暴走族業界には「フカシこいてんじゃねぇよ!」という言葉があるよう、自分を大きく見せる嘘に溢れているので、疑って掘り下げねば調査にならないだろう。それと比べて(比べるのも失礼だけど)我々のユーザーは訓練を受けた専門職で話も通じる。それでも、正しく見せたいバイアスは働きそうで、問い続けることは必要だと感じた。 エスノグラフィー調査を採用しただけで深い情報が解き明かせるという訳ではなく、問いを立てる質が高いから本質に近づけるのであり、もはや手法の問題ではない印象を受けた。今の自分のままでは、例えエスノグラフィー調査の機会が与えられても、半構造化インタビューと比べてそれほど深い調査にならないかもしれず、地道な修行が必要。 エスノグラフィー調査を受け入れる土壌 悪そうな暴走族が調査に協力してくれるのか?という疑問があった。

状況に埋め込まれた学習

イメージ
ストレングスファインダーでも「学習欲」が強みな私は、さらに学習について学習すべく「 状況に埋め込まれた学習 」を読んだ。社会科学のようなテーマを認知心理学で解き明かすようで、前提知識の無い私には難しかった。 細かい考察は分からないなりにも、この本で言う学習が一般的なイメージである講義の受講や暗記とは一線を画すことは分かった。「正当的周辺参加」すなわち、実践集団に弟子としても潜り込み、最初は周辺的なタスクをこなしながらも全体像を俯瞰し、だんだん実践できる範囲を増やしてゆき、いつしか実践集団の一員まで成長するような学習を扱う。 新入社員OJTの立場から ちょうど、ソフトウェア技術者として新入社員が配属されてきて、仕様設計やコーディングでなく、まずはシステムテストをやらせている。手順通り操作して「G」を付ける作業にはクリエイティヴさが無くて申し訳ないけれど、学習としては理に適っていると思い直した。 ちょうど書籍で紹介される仕立屋の事例で、新弟子が任せられるアイロン掛け→縫い→裁断の順番が、洋服をつくる工程とは逆方向だという話に通じている。いきなり新入りが布の裁断をやって布を台無しにすることを避ける狙いが言及されていた。それ以外に学びの観点で、上流から時間をかけて大きなPDCAを回す間に、下流から前工程に注意を向けつつCheck&Actionを数多く回せば目を養うことに意味がありそう。 新人ソフトウェア技術者のシステムテストに話を戻すと、「どうして先輩はこんな愚かなバグを埋め込んだのか?」という検証の観点もあり、「こんなにイケてないUIを描いたのか?」という妥当性の観点もあり、ソフトウェア技術者の仕事の全体像にアクセスするチャンスがある。そんな 正統的周辺参加 であることに気付いてもらいモチベーションを保ちたい。 問いを持ち、「自分ならこうする」という考えを持ってから上流の設計に進んでいただければ、上流から下流まで十全的にこなすソフトウェア技術者になった際に、よりイケてる設計が出来るようになると期待する。 親という立場から 子供が学校に通い出すと「勉強しなさい」という台詞を言ってしまいそうな予感があり、この本で述べられていることにハッとした。 「勉強」をする、というのはおかしい。 何かをするときに、「勉強」が結果的にともなって