自然と暮らす切り紙の世界
神戸ファッション美術館にて2017年7月13日~10月9日までの特別展示が「自然と暮らす切り紙の世界」だった。付近をぶらついていると、タペストリー広告に描かれた原色ながら優しい雰囲気に惹かれて入ってみたくなった。
期間中に貼られた塗り絵の集大成を見ると、これはこれで一つの作品に見えてくる。
前フリはさて置き展示に入る。当然ながら撮影禁止なので、「ここが凄い」と伝えるのは難しいけど頑張る。
切り紙の作品に近づいて観察すると、一つ一つの要素は塗りの中にハイライトやシャドウがあって、模写しようと思えばイラレで真似ることもできるかもしれない。
でも、やり直しの効く描画ツールではなく、一本のハサミで作る切り紙だから尊いんだろうか...そんな漠然とした仮説が浮かんできた。
私の仮説「手仕事だから尊い説」が打ち砕かれたのは、後から作品の脇に「ソリドグラフ」という但し書きがあることに気付いた時だった。ソリドグラフとは、切り紙の作品を超高精度で立体的にスキャンして技術的な方法(レーザーカッター?)で作品を再現したレプリカ。
言われても気付かないくらい良く出来たソリドグラフを観て、「凄いなぁ」と感心していたことに後から気付く。手仕事で作った実物だから尊いという精神論もあるけれど、質感や立体感を出す手段としての切り紙なんだろうと考え直す。
半分に折ってハサミで切って広げて作る季節の風景や花は、シンプルだったので私にも作れそうに思えた。挑戦してみると構図やバランスがイマイチだったりして、やっぱり展示作品は凄かった。
気ままな切り絵遊びから出発して、だんだんと精細さを増して、写真に迫るくらいの切り紙作品に繋がる。もしリアルなのが尊いとするならば、写真の方がよっぽど「真」実を「写」している。本業が写真家である今森さんが、あえて切り紙に取り組んでおられる意義は何か。
映像展示の台詞を借りると「切り紙は写真の真実性から解放される」とのことだった。切り紙にしては精巧だけど、写真と比べるとリアルさに隔たりがあるのは、作品として劣っているのではなく、むしろモデリングの成果だったんだ。作者の目で里山を観て解釈したことをモノに落とし込むために、真実から離れることに意義がある。
展示作品より簡略化しているだろうけれど、作ってみると確かに「本物そっくり!」に作れた。細かい模様がカクカクしてしまったので、もっと切れ味の良いハサミが欲しくなる。
メーカーでモノづくりする際には、開発部門が設計情報を創造して、製造部門が実際のモノへと転写する。型紙という設計図を介して切り紙が作れるということは、型紙を創造する「設計」と、ハサミで切り出して仕上げる「製造」に分けて考えられる。
美術館に展示された切り紙を見ると「製造」の精細さに目を奪われるけれど、実は「設計」情報の創造が肝だったんだと思い直した。
自分で作ってみて、少し練習すればハサミの「製造」は上手くなりそうな感触が持てた。一方で、型紙をつくる「設計」については、昆虫の構造を理解しつつ、切り紙の勘所も知らないといけないので、一朝一夕では難しそう。
ものづくりにおいて、物凄く精密な「設計」があったとしても、「製造」できなければエンドユーザーに届かない。私の本業は「設計」だったのが、いろいろあって「製造」の現場に足しげく通った思い出が蘇る。教訓として得られたのは、最初から製造を知り尽くして考慮した上で設計していれば良かったということ。
切り紙アーティストの場合は自分の中で完結するので問題とならないけれど、人数の多いメーカーだとどうしても「設計部門」「製造部門」で役割を分けねばならない。エンドユーザーに対して調査・分析・設計・評価することでユーザビリティを高めるように、製造に対して調査・分析・設計・評価することで設計情報のフィージビリティを高める取り組みがあっても良かったのかもね。
作者の今森光彦さんは写真家ながら、里山にアトリエを構える切り紙アーティストとしても活躍されている。蝶の切り紙が本物の標本みたく精細で、しかも美しい。我が子にとっては自分が蝶に変身することの方が興味あるようだったけど。
美術館の入り口付近には塗り絵コーナーがあって、子供たちが思い思いに標本の蝶どおりに塗ったり、好きな色で塗ったりしている。
期間中に貼られた塗り絵の集大成を見ると、これはこれで一つの作品に見えてくる。
前フリはさて置き展示に入る。当然ながら撮影禁止なので、「ここが凄い」と伝えるのは難しいけど頑張る。
一本のハサミとソリドグラフ
展示の近くに「一本のハサミで作られています」という但し書きがあって、この精細さをハサミで出せるなんて凄いなぁと感嘆するばかりだった。切り紙の作品に近づいて観察すると、一つ一つの要素は塗りの中にハイライトやシャドウがあって、模写しようと思えばイラレで真似ることもできるかもしれない。
でも、やり直しの効く描画ツールではなく、一本のハサミで作る切り紙だから尊いんだろうか...そんな漠然とした仮説が浮かんできた。
私の仮説「手仕事だから尊い説」が打ち砕かれたのは、後から作品の脇に「ソリドグラフ」という但し書きがあることに気付いた時だった。ソリドグラフとは、切り紙の作品を超高精度で立体的にスキャンして技術的な方法(レーザーカッター?)で作品を再現したレプリカ。
言われても気付かないくらい良く出来たソリドグラフを観て、「凄いなぁ」と感心していたことに後から気付く。手仕事で作った実物だから尊いという精神論もあるけれど、質感や立体感を出す手段としての切り紙なんだろうと考え直す。
切り紙遊びと写真のあいだ
簡単な切り紙で季節を感じる「切り紙歳時記」という展示エリアがあった。季節を気ままに切り紙で表現する、京都・滋賀あたりの文化にルーツがあったとか。半分に折ってハサミで切って広げて作る季節の風景や花は、シンプルだったので私にも作れそうに思えた。挑戦してみると構図やバランスがイマイチだったりして、やっぱり展示作品は凄かった。
気ままな切り絵遊びから出発して、だんだんと精細さを増して、写真に迫るくらいの切り紙作品に繋がる。もしリアルなのが尊いとするならば、写真の方がよっぽど「真」実を「写」している。本業が写真家である今森さんが、あえて切り紙に取り組んでおられる意義は何か。
映像展示の台詞を借りると「切り紙は写真の真実性から解放される」とのことだった。切り紙にしては精巧だけど、写真と比べるとリアルさに隔たりがあるのは、作品として劣っているのではなく、むしろモデリングの成果だったんだ。作者の目で里山を観て解釈したことをモノに落とし込むために、真実から離れることに意義がある。
設計と製造に当てはめてみる
今森さんが著書「昆虫の立体切り紙」で型紙を公開していて、自分でも作れることにワクワクして衝動買いした。展示作品より簡略化しているだろうけれど、作ってみると確かに「本物そっくり!」に作れた。細かい模様がカクカクしてしまったので、もっと切れ味の良いハサミが欲しくなる。
メーカーでモノづくりする際には、開発部門が設計情報を創造して、製造部門が実際のモノへと転写する。型紙という設計図を介して切り紙が作れるということは、型紙を創造する「設計」と、ハサミで切り出して仕上げる「製造」に分けて考えられる。
自分で作ってみて、少し練習すればハサミの「製造」は上手くなりそうな感触が持てた。一方で、型紙をつくる「設計」については、昆虫の構造を理解しつつ、切り紙の勘所も知らないといけないので、一朝一夕では難しそう。
ものづくりにおいて、物凄く精密な「設計」があったとしても、「製造」できなければエンドユーザーに届かない。私の本業は「設計」だったのが、いろいろあって「製造」の現場に足しげく通った思い出が蘇る。教訓として得られたのは、最初から製造を知り尽くして考慮した上で設計していれば良かったということ。
切り紙アーティストの場合は自分の中で完結するので問題とならないけれど、人数の多いメーカーだとどうしても「設計部門」「製造部門」で役割を分けねばならない。エンドユーザーに対して調査・分析・設計・評価することでユーザビリティを高めるように、製造に対して調査・分析・設計・評価することで設計情報のフィージビリティを高める取り組みがあっても良かったのかもね。
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